蘓誕
日本の詩を発見する前は、美しい画像を思い浮かべさせるより、冗長なポエムで読む人の脳を人形使いのように操縦してシーンを描くのが綺麗だと思っていました。つまり、読む人を言葉で操り、木や葉の位置を示し、川の広さ、長さ、流れる音も言葉で完全に伝え、草の色から感情に至るまで詩人がすべて決めてしかるべきだと思っていました。
日本の詩を読み続けて分かったのは、逆に少ない言葉で、余計な言葉を使わずに、本当に必要な言葉だけで自分の言いたいことを伝えるということです。これにより、読み手は自分なりにシーン(川、森、空、雲、動物、音、など)を描くことができるので、読み手の脳裏を横切るのは人によって全く違うといってもいいのでしょう 。カナダの辺鄙のところで育った人が知っている自然は、上海の大都会で育った人の自然とは大きく異なるとはいえ、うまく言葉が操れれば、詩で感情が正しく伝わるのでしょう。
例えば
古池や蛙飛び込む水の音
考えてもらいたいことがあります。
まず、「古池」を描写してみてください。色は?木々の密度は?空の色、池の色は?聞こえるのは?天気は?最初の句だけで皆さんの答えはおそらくすでに異なっていると思います。
次は蛙の色、蛙の飛ぶ高さなどに対する答えもきっといろいろだと思います。
実は私は詩からいっぱい影響を受けました。かつて知識の限り「綺麗!」だと思っていた文章を紡ごうとしていたのに対して、今は詩を作る際、一つひとつのの言葉を丹精に選び、冗長な言葉にならないように努力しています。
数か月前、Bow Riverに沿って歩きながらまだ日本語が下手だと知りながらも、語彙、想像力の鍛錬を兼ねて俳句を作ってみました。俳句が好きになる以前、歳月の経過を川で譬えたり、具体的に流れの速さ、自分の視点、「私」という存在を入れていました。
「凍りつつ流れる川の囁きぞ」
季語も切れ字も全部入っており、冬のもたらす残酷さを連想させています。完璧な俳句ではないことはいうまでもないですが。。。
蘓誕さん。すごいです!こんな感動的な詩は初めてです!まさに美談の中の美談です。お世辞ではなく、僕が新しい言葉を作りたくなるほど印象されました。「佳話感動」
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