2011年4月10日日曜日

うんざり

ジョン

映画を見る目的は、楽しむことだ。そのため、数々のジャンルが作られた。しかし、そこには一つの大きな問題が隠されている。それは、一世紀もの長い映画の歴史だ。一つの映画を見たら、観客はまず自分の記憶と戦わなければならない。なぜなら、自然にそれまでの作品と比較してしまうからだ。ときどき「前にはもっと優れた作品があったんだ」と、がっかりする。だからこそ、素晴らしい映画は映画の歴史に新鮮な血を与えることにほかならない。

やくざの世界も、新鮮な血が必要だ。不動力(ふどうりき)の考えはまさにその通りだ。子供のころ兄貴の死を見た力にとって、血は全てだ。仲間の血が流されたため、兄貴が復讐をしようとした。そして、兄貴の死で生まれ変わった力は、血を恨んだ。しかし、彼の望みはそれに止まらなかった。やくざはおやじばかりだったことが、すべての原因だとかれが考えた。そのため、かれは他の若者と一緒に敵を討つ。1996年の「極道戦国士:不動」は、一つの青春征服を描く映画だった。

image002映画を説明する前に、三池崇史(みいけたかし)監督を紹介しなけらばならない。彼はVシネマの出身だった。ビデオの作品は有名人や大金にあまり関係がないが、その分、自由に作品を作ることができる。たとえば、作品の内容は比較的自由だ。「不動」はVシネマではないけれど、そのような経験との関連がはっきりと見受けられる。一般的に、映画は漫画からストーリを受け継ぐことをしない。高校生のやくざもあまり見ない。でも、三池がそのようなことに拘らないところは魅力的だ。そのため、テーマも撮影もびっくりさせるものだった。

アクション場面の可能性はいっぱい生まれた。三池はアクションの本質がよく分っている。たとえば、ある場面で、電話している男がトイレの中で待ち伏せされた。これは複雑な場面じゃないけれど、撮影的に三池は電話の話とともに二人の刺客の入り方にそれぞれ大きな特色を持たせた。「だめだ!」と分かっていても、撮影の仕方が大事だ。なぜなら、それが次の銃撃戦を感情的に支えた。そして、アクションが「度を超える」のも漫画らしい。そこには、なんとなく絶対にありえない場面が展開される。それは、もうコメディに近いわくわくした楽しみだ。

映画「不動」は、力という人物とともに、新しい血を作り出した。一方、作品の内容はVシネマみたいに極端なものだ。それにしても、これは普通の日本映画ではなく、異常に用心深い作品だ。三池は映画の伝統を転覆させる監督だ。それを理解するために、ぜひこの映画を見てください。

1 件のコメント:

  1. ジョンさん、
    チャンバラのことをよく知っているですね。私は全然知っていないので、たくさん習いました。私は日本の映画をあまり見ないですが、ここからジョンさんは書いたの映画を見るつもりです。

    ^^*

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