エドです
2015年11月19日木曜日
考えさせられる仮説
エドです
今回は「Sapir-Whorf hypothesis」について書きたいと思います。Sapir-Whorf hypothesisというのは、いわゆる「サピア=ウォーフ仮説」という仮説です。これは何かというと、要するに自分の母国語によって、世界の捉え方が違ってくるということです。人は言語を通して物事を捉えるため、自分の発想などがそれに影響を与えているわけです。
例えば、自分の言語で4以上の数字を「たくさん」というのであれば、4以上のものが「たくさん」であるという感覚を持つようになります。ところが、10以上の数字でないと「たくさん」とは言わないという言語であれば、ものをたとえ5つ持っていても少ないと言ったりすることがあります。
日本で「青信号」というのをご存知の通り、違う言語を持つ国では、絶対に青じゃなくて赤いだよというでしょう。
こういう国と国の間に感覚の違いがあるので、そこから文化の違いが生じるのではないかと私は思います。自分の国の文化を伝えるために、言語が必要だし、この仮説を信じれば、母国語によりその文化の伝え方も違ってきたりするのではないかと思います。
2015年11月5日木曜日
母国語の影響
エドです
日本に留学したとき、色々な授業を受けましたが、その中の一つについて書きたいと思います。その授業は日本の新聞記事から一つ選び、それを読んだ感想を書いたり、同級生と話し合ったりするという授業です。
その授業に出る学生の出身国を見れば、多いのはやはり中国と韓国です。新聞を自由に読むためには割と高い日本語能力が必要で漢字を多く知っていることが要求されていました。
中国人の生徒達には、正しい読み方が分からなくても、漢字の元々の意味をたいてい知っていますから、新しい言葉もほとんど理解できます。そこで、授業の先生が興味深い事を教えてくれました。中国人の学生はレベルが上がれば上がるほど日本語がわかりやすくなっていくという事です。何故かと言うと、ネイテイブみたいに新聞を読んだりするレベルになったら、使われている漢字の数、それによって成り立つ漢語が増えてくるからです。
韓国人の学生には、日本語と韓国語が似ている所が多いから、日本語の習得が早いみたいです。僕のホストマザーは、前にホームステイした韓国人の留学生のことをいつも話してくれました。一年だけで日本語能力試験の一級を取れた学生さえいたと言っていました。
フィリピン人である僕には、頑張るしかないみたいです。(笑)
2015年10月29日木曜日
言語を勉強しようと思った理由
エドです
8歳になったとき、両親の仕事で家族はヨーロッパのアイルランドに移住することになった。そのとき、アイルランドにはアジア系の人が少なく、フィリピン人は全然いなかった。それで、フィリピン人である私にとって、その移住は大変なことだった。
アイルランドに行って初めていじめに遭いました。アジア人さえ珍しいため、私は目立っていた。髪の色が黒で肌の色が黄色、典型的なアジア人の要素を持っていたのだ。そのため、周りの人に一日たりとも好奇な目で見られない日はなかった。ほぼ毎日そのような視線に囲まれて、精神的に疲れた。
外見による差別はまだしも、暮らしでの違いもあった。フィリピンでは学校の休憩時間にほとんどの学生が家から弁当を持ってきて食べることになっている。アイルランド人は米を食べないので、弁当を持っていた私を見ると、みんな変な顔をしたり、笑ったりした。それに、弁当の匂いも文句の的となった。なので、私は米が大好きなのに、みんなと同じようにしてパンなどを持って行くことにした。ぜんぜん口に合わなくて休憩の時間に何も食べない日がときときあった。
言語も問題になった。フィリピンではみんな幼いときからずっと学校で英語を習っていたのだが、その英語はただ書いたり読んだりするだけで、それに発音や話す速度、話し方などは、アイルランドの英語とは全然違っていた。アイルランドの英語はイギリスの英語とは近くて、銃を撃つみたいに言葉をざざっと言い投げる人が少なくなかった。そのため、アイルランドの英語は聞き取りづらくて、最初のころは全然分からなかった。さらに辛いことに、友達という存在になってくれる人がせっかく見つかっても、言語の問題で彼らのやり取りについていけなくて、なかなか自分の言いたいこと、自分の感情を伝えられなくて、友達でいてくれてありがとうさえ言えなかった。誰かがジョークを言ってみんなが笑ったら、自分だけが意味不明で水を差すようなことをしないように一応笑うことにしていた。
言葉の壁が一番辛かったかもしれない。アイルランドの特徴的な英語を聞き取れるようになったときに、さらに悔しい問題にぶつかった。友達と会話をするときに、みんなを笑わせようとして自分がここで何か面白いことを言おうとしたら、頭の中で言葉を探しながら文章を作っているうちに、話題がもう済んで違う話題になったりした。
それから数年経ち、フィリピンからの移民が増えてきた。そこで状況がよくなるかと思ったら、実際はそうでもなかった。同じ国同士の人といえども、必ず共通の言語でコミュニケーションが取れるわけではない。フィリピンには多くの島があって、それぞれ違う方言がある。私の生まれた島ではVisayaという方言を使い、フィリピンの標準語(Tagalog)とはまた全然違う。標準語しか喋れない人によく会った。その標準語はフィリピン人が必修として高校生卒業するまで勉強することになっていたのだが、8歳からアイルランドに移住した私には、勉強する時間が少なかった。テレビでは標準語が使われているから、大体聞き取れるけど、喋ることは少ししかできない。なので、フィリピン人の友達と遊んでいるときでも自分の気持ちを表現することができず、いつも聞いているだけでいた。
アイルランドに住んだときのことをこういう風に並べてみると、大変なことばかりだったように思われるかもしれないが、いまから思うと、じつはかけがいのない経験だった。それを通して学べたことが色々あって、人生をもう一度やり直せるなら何も変えず同じ道を選ぶに間違いない。その経験があったからこそ、人生は甘いものじゃないと小さいときから分かったし、恵まれているときはより大切にすることができるようになったのだ。自分の個人性を自覚しながら、言語の重要さを忘れずにがんばってきた。そして、最後にこの思いを記しておきたい。「言語がなかったら、人は誰かとしゃべることも互いを理解することもできない。言葉がなければ、人間は望みや目標を共有したり、歴史を理解したり、詩や音楽を楽しんだりすることもできない。」
2015年10月22日木曜日
心理学の本を読む
エドです
前回、単語を覚えるために本を読むということについて書きましたが、今回はその中で気に入った内容を要約して、紹介したいと思います。
本の主な内容は、なぜ若者が電車や公共の場で傍若無人な振る舞いを平気にできるのかということを取り上げています。ある社会学者によると、仲間以外はみな風景だという「若者の法則」とでも呼ばれるルールがあるのです。
この「若者の法則」というのは、簡単にいうと、若い人にとっては、たとえば電車に乗っているときに、周りの人々が家具のようなものにしか見えないため、周りの人の言動などを気にせず、好きなように振舞うということです。例えば、電車の中で化粧をしている人を見かけることがあると思いますが、なぜその人がそんな行動を平気にできるかというと、さっき言った規則によれば、回りの人が家具のようなものだとしか感じられていないので、「あの机が見ているから恥ずかしくて化粧できない」という人はいないだろうし、その「家具」を気にしても意味がないんじゃないかと思うわけです。
そして、その学者が述べたことで面白いなと思ったもう一つの点は、若者が好き勝手にそのようなルールを作り、思うがままに振舞っているから、楽なように見えるけど、実際はそうでもないということです。他の人の言動を無視したりするのには、ものすごくエネルギーがかかるのです。作者が鋭く説明したように、「自分はやりたいことをやるけど、他人がそうするのには耐えられない」という。
若者はやっぱり偉いです。この本を読むと、若者のルールに従ったほうが社会的に楽ではないかと思いますが、そう思いながら、なぜ大人は若者が好きなようにしてあまり迷惑をかけていないのに、怒ったり、腹が立ったりするのだろうかと考えました。自分はそう思いました。
他の心理学の本も読んでいます。その本に出てきた理論でこの現象をぴったり説明することができると思います。
家の中はごみで臭くなるから、ごみを外に出す。これと同じように、人間は、成長して大人になろうと努力しているうちに、自分の中にある「嫌い」「みっとめない」「情けない」部分を捨てていきます。そして、大人になった人間が若者を見ると、まるで外に出したごみのような、捨てた昔の自分を思い出し、つい腹が立ったりします。
2015年10月8日木曜日
五番目の言語
エドです
今まで書いた内容は、日本語を学習しているおかげで、日本という別世界に足を踏み入れられたということだったが、今回は日本語以外の言語、つまり日本とまた違う世界へ渡る橋としての語学について書きたいと思う。
これはすなわち、日本語を勉強していた時に身についた勉強の方法のことだ。私は日本語を勉強していくうちに、どういう方法で勉強すれば時間的に効率的に言葉を覚えたり、文法を理解したりすることができるのかということが分ってきた。それは、研究した方法であろうと、自分で見つけた方法であろうと、とにかく自分に合っている学び方をなんとなく悟ったということだ。
そして、この自分なりの方法を他の言語を学習するときに利用して、第二もしくは第三の外国語を身につけるペースを加速していくのだ。例えば、私はこの前、韓国語を勉強し始めた。まずハングル文字から始めたのだが、あっという間に全部覚えられ、読めるようになった。それは、日本語の漢字を覚える方法と同じように、ハングル文字の特徴的な形から認識し、覚えたから、早かったのではないかと思った。
さらに、日本語を上手に使えるようになってから、自分の世界が広がったのと同じように、いつか韓国語が上手にできたら、またもう一つの世界に入れるのではないかと思って新しい楽しみができた。
私はこれからも、人生の最後まで世界の色々な言語を勉強していきたいと思う。新しい言語を身につけたたびごとに、だんだんだんだん世界が広くなっていくことを想像して、イキイキするものだ。
2015年10月1日木曜日
翻訳の世界
エドです
日本語を専攻と決めたとき、将来はどういう仕事がしたいのか、なにができるのかなど、よく考えていた。あれこれと考えた上で、一つあげられるのは翻訳の仕事だ。
私は最近、じっさいに翻訳の仕事をし始めた。それで、この仕事をやっている内に分かった良いことについて書きたいと思う。その良いことというのは、こういうものだ。
仕事をしていく中で、勉強になることがいっぱいで、仕事すること自体が情報源でもある。例えばこの前、網脈絡膜萎縮についての記事を日本語から英語に訳す仕事をした。網脈絡膜萎縮というのは眼の病気で、罹患者の視力が幼いときから衰えていく疾患だ。
この翻訳をし終わった時に気づいたことあった。それは、これから先は長いと思うのだが、その分、翻訳の仕事が多いのだ。そして、その仕事が多ければ多いほど、身に付ける知識も増えるのだ。
これは、私にとってまさに理想的な仕事だ。仕事をしながら、勉強になることがあるというのは、自分を成長させる機会だと思い、一石二鳥である。さっき述べた例のように、網脈絡膜萎縮についての翻訳の仕事をしたおかげで、この病気についての知識を持つようになった。いつか専門の人と話すときには話題の一つとしてこの病気のことを持ち出すこともあるのだろう。
翻訳の仕事を、自分をさらに面白くする方法として捉えることもできるかもしれない。
2015年9月24日木曜日
映画は素晴らしい
エドです
私は日本語を勉強し始めてから、日本のメデイアに触れるようになった。音楽だったり、ニュースだったりするが、とくに映画を観ることが多かった。
映画というのには、多くの人が関心を持っていると思う。人と初めて出会って自己紹介をするときに、趣味は映画を見ることだという答えが少なくない。それはなぜかというと、映画には自分が歩んでいけない道、あるいは今までの人生と違う道を、仮想の中で踏み出すチャンスを与えてくれる要素があるからだ考えられる。
つい最近、「ツレはうつになりまして」という映画を観た。この映画は、ある夫婦が、夫の鬱病の問題に二人で努力して乗り越えるという話だ。そして、鬱病の特徴についても見せてくれた。私は今まで鬱病についてそんなに深く考えたことはなかったけれども、この映画のおかげで色々考えさせられて感動した。
この映画を見ている最中に、気が付いたことがあった。それは、もし日本語を勉強していなかったら、この映画の言っていることを知る由もなく、映画の教訓も勉強することがなかったということである。それで思ったのは、言語習得につれ、自分の言語の世界に制限されることなく、別の世界へ飛び出す機会を手にしたということである。自分の理解できる言葉で映画を見ることは、別世界を味わうことである。翻訳された言葉で映画を観ることもできるだろうが、もともとの言語で見ていたら、その倍ぐらいその世界を経験することができるのではないかと思う。
2015年9月17日木曜日
読書で視野拡大
エドです
初めて日本語を勉強しようと決めた時、こんなにもたくさんの知識や新しい経験に出会い、自分でも分かるように成長できたとは思ってもいなかった。私が想像していた言語習得とは、ただ覚えた単語を日本人に向かって適当に発射し、その変な言い方を理解してもらったり、あるいは笑わせたりするというぐらいのことだった。勉強する理由はただ、それは人を笑わせるという単純なものだった。それに、日本語力にはあまり期待せず、日常会話くらい話せたらいいと思っていた。しかしながら、勉強し始めてから4年経った今は、なんとなくかなりのレベルに上がってきた。
会話力はともかく、一番上達したのは読める漢字の数である。今まで読むことに力を入れて、話すことを取りあえずおいてきたのだが、今振り返ってみるとそうしてよかったなと思う。なぜかというと、読める漢字を増やすことで、日本の文章に触れることができたからである。つまり、日本の本を楽しめるようになったのだ。
日本の本を読むことは、私の一つの楽しみであり、英語だけでは得られない大事な情報源である。例えばこの夏、日本人が書いた心理学の本を読んでみた。以前にも心理学の本を読んだことはあるのだが、日本人が書いたものを読むと、これまでとはまた違う視点から物事を捉えることができるし、ものごとを考える視野を広げることができる。また、カナダで育った私は日本人である筆者の立場になって考えることができて、二つの文化のありかたとその違いを実感できた。
それに、英語に翻訳された本よりも、元々の言葉で原作を読んだほうがその本の本質をつかめられるのではないかと私は思う。